みかんを始めとする果樹王国として知られる和歌山県。

その中でも特に、「南高梅(なんこううめ)」や「古城梅(ごじろうめ)」などの紀州梅は、全国収穫量の半分以上を占めており、国産梅の中でもトップブランドの地位を確立しています。

紀州梅の用途としては梅干しや梅酢が一般的ですが、最近では梅味のお菓子も増えてきました。

その中でも他とは一味違う本格派の梅菓子として人気を博しているのが、株式会社テラモトの「うめ玉」です。

一口食べれば、「まさに梅干し!」と多くの梅好きをうならせる「うめ玉」。

その秘密は、同社がかつて虎屋漬物と呼ばれていた時代から培ってきた梅干し作りのノウハウにありました。

『旅するイストリア vol.3』では、約半世紀もの間、紀州梅を使った梅干しを各種作り続けてきた「虎屋漬物」(現「株式会社テラモト」)を継ぎ、今までになかった梅菓子「うめ玉」を世に生み出した寺本登(てらもとたかし)さんのお話をお届けしていきます。

梅干し作りやお菓子作りと深い関わりを持たずに育った寺本さんが、どうして歴史ある漬物店を引き継ぎ、お菓子作りを始めたのか、そのストーリーや想いを詳しく伺いました。

器械体操に打ち込んだ日々から地元和歌山で新たな道を選ぶまで

小学5年生から高校の終わりまでを和歌山県で過ごしていた寺本さん。とはいえ、当時の寺本さんは梅干しやお菓子作りには全く縁がなく、スポーツに打ち込む日々を送っていたといいます。そんな寺本さんが「虎屋漬物」の門をくぐったのは、27歳のとき。一体、どのような背景があったのでしょうか?

子供の頃から飛んだり跳ねたりといった運動が好きだった私が、学生時代に打ち込んでいたのは器械体操でした。中学生のころに始め、福岡の大学にスポーツ特待生として進学した後も、ひたすら器械体操に全力を注いでいたように思います。

大学卒業後はいったん和歌山に戻ったわけですが、その時点では消防のレスキュー隊を目指すか、それとも体育教師になるかと考えていました。漬物屋なんて全く進路にはなかったですね(笑)

就職先を考えていたときに、大学の先輩から実業団の体操クラブを所有しているメガネメーカーに誘っていただき、福井県へ行くことに。大学卒業後も器械体操の選手を社会人チームで4年ほど続けることになりました。

27歳で引退することになり、そのまま同じ会社の営業職として働き続けようとした矢先、和歌山の実家から母が脳梗塞になったという知らせを受け取りました。合わせて叔父からは地元に戻ってくるようにという要請を受けたのです。

迷いはありましたが、最終的には会社を辞めて地元に戻ることに決めました。新たに和歌山で職探しをしなくてはというときに、叔父が紹介してくれたのが「虎屋漬物」でした。

梅干し作りで独立を目指した先で巡ってきた会社の相続

「虎屋漬物」の初代社長と面談し、入社の意志を固めた寺本さんですが、入社当初からいずれは梅干し作りの道で独立することを視野に入れていたといいます。「虎屋漬物」を継ぐことになったのは、ご本人も予想しえない流れだったそうです。当時の経緯を語っていただきました。

社長との面談は成り行きによる部分もありましたが、面談の結果が出る頃にはすっかり決心が固まっていました。
梅干しの仕事をとことんやってみようと決めたのですが、同時に「もう仕事を変えたくはない」という想いもあって。

この先養う家族ができたとしても、紀州梅の事業ならこれから先も長くやっていけるだろうと、ゆくゆくは独立して自分の会社を持とうと初めから考えていました。社長にも入社当初にその旨を伝えました。

社長は了承してくれたんですが、「10年は辛抱しろ」と。
そうして働き続けて、あっという間に10年の月日が経ったものの、社長から独立の話がなかなか出ないんです(笑)

なので、ある日私の方から話を切り出したところ、「独立するくらいならいっそ店を継がないか?」と思わぬ話がでてきて。虎屋漬物には後継者がいなかったんですよね。

正直、「えぇ…」とぼやきたくなるような心境でしたが、他の会社の二代目社長に相談した際に「血の繋がった息子じゃないんだから、気楽にやってみたら?」と言われたことで吹っ切れました。一気に気持ちが楽になり、「やってみるか」という思いで跡を継ぐことに決めたんです。

会社経営への挫折、そして再び復帰を決意するまで

そうして虎屋漬物を継いだ寺本さんは会社経営に励みますが、実は代表就任から3年ほどで社長を一度退任し、前社長に経営権を返したのだとか。そこから寺本さんが再び同社の代表取締役として再任するまでに、約3年。その裏側にはどのような想いがあったのでしょうか?

私が会社を継いだ当初、梅干しの品質だったりほかにも色々と問題があって、当時はとにかく失敗の連続で苦戦ばかり。会社の業績が悪化していたこともあって「もう無理だ」と判断して、前社長に会社の経営権をお返しすることにしました。

それから3年ほどが経過して、悪化していた会社の業績も少し上向きになってきた頃合いで、前社長から「もう一度代表をやらないか」とお声がけ頂いたんです。前社長ももうかなりお年を召していましたし、どうしようかなと。

「人間一度失敗したことは、もう二度と失敗しない」
悩んでいた時に前社長からそんな言葉を受けて、もう一度自ら会社の舵をとることを決意しました。

忘れ去られたマニュアルをもとに梅干しのプロが10年で昇華させた「うめ玉」

再び会社の経営に乗り出した寺本さんが、10年もの開発期間を経て生み出した新たな紀州梅の可能性。それが、梅干しのおいしさをまるごと詰め込んだ梅菓子「うめ玉」です。今では100円ショップダイソーでも小分け袋で販売され、若い女性を中心に好評を博している人気の「うめ玉」が、今の形に至るまでの試行錯誤の数々を教えていただきました。

「うめ玉」の原型は元々、20年ほど前に他メーカーが製造していたものでした。
私どもは当時仕入れたものを販売していたのですが、量産に不向きだったこともあり、作っていたメーカーも製造をやめてしまったのです。当時の「虎屋漬物」に製造を引き継いでくれないかという打診があったものの、忙しさのあまり放置されていたという裏事情があります。

そんな「うめ玉」の存在を思い出したのは、ちょうど当社も含めて様々なメーカーが料理やお菓子など梅の加工品を色々と工夫し始めていた時期でした。若者の漬物離れなどの理由から和歌山の梅干しが売上を減らしていく中で、一つのアイデアとして浮上してきたのです。

『お菓子が作りたいわけではなく、あくまでも梅干しの美味しさをより多くの方に届けたい。』「うめ玉」の原点となる想いはまさにそこでした。

もともと製造していたメーカーから受け継いだマニュアルがあったものの、その通りにしても上手く作ることができず、時代が経ちすぎて誰にもアドバイスを求めることができない状態で。

マニュアル以外の手がかりが全くない状態から、思いつくアイデアをコツコツと試し続け、やっと機械で加工できるようになるまで6年近くもかかりました。

創業から受け継いでいたノウハウを使い、漬物屋の当社だからこそ出来る「うめ玉」を作りたいと、味や口当たりにとことんこだわり続けました。そうして3年前に、やっと満足がいく出来映えの「うめ玉」が完成しました。

唯一無二の「うめ玉」とともに描く紀州の梅干しの未来図

「うめ玉」がヒットを収めた後も、紀州の梅干しにかける寺本さんの想いは留まるところを知りません。寺本さんはどのような未来を描いているのでしょうか?

これから夏が近づくにつれて、うめ玉の販売はどんどん伸びていきます。販売当初は予想していなかった嬉しい誤算で、建設業界など屋外の肉体労働に励む方々の熱中症対策としても効果的だと注目を浴びているんです。

「うめ玉」は梅干しとは違い、コロナ禍の最中も堅調に売上を伸ばし、毎年販売量は右肩上がりです。今後はオンライン販売だけではなく、展示会などにも力を入れて、「うめ玉」を更に広めていきたいと思っています。

「うめ玉」は当社だからこそ出来た唯一無二の梅菓子。

すでに販売中のより甘みの強い「ハチミツうめ玉」のほか、酸味の強いストロングタイプの開発などバリエーションはいくらでも考えられるでしょう。「うめ玉」の可能性は無限大です。

また、今後は海外への販売も視野にいれながら、「うめ玉」の技術をほかの素材へ応用することなども研究していければと思っています。

「うめ玉」は農作物の梅とは違い、時期や天候に左右されることなく、安定した品質を提供し続けることができます。「うめ玉」を通じて、紀州の梅干しの美味しさをより多くの方に広めていけるようにこれからも頑張ります。

あとがき

コロナ禍で落ち込んでいた紀州の梅干しの売上も、夏の酷暑に伴って少しずつ販売量が戻ってきているとお伺いしました。梅干しの美味しさを伝えるべく「うめ玉」という画期的な梅菓子を作り出した寺本さんが、今後その技術を駆使してどのように紀州の梅の美味しさを世界に広めていかれるのか。うめ玉シリーズの新たな味に出会えるその日を楽しみにしています。

「うめ玉」の商品詳細はこちら

close-icon